エコロジー研究会
CSRの取組みについて
同志社大学経済学部教授 郡嶌 孝 氏 
エコロジー研究会(H17.07.29)より


 今、企業にとっての経営の一つの課題は「持続的な形で企業が存続するための意味は何か」と問うている。持続性、長期的な存続性のための価値をどうやって市場性の中で表していくかということ、言い換えると「将来価値を企業そのものの価値全体の中でどう表すかということ」が非常に重要な問題になってきている。その中で比較的明確でなかったのは、知的資産・財産をどう活用し、掘り起こし、評価し、市場の中に顕在化していくのか、つまり企業の一つのポテンシャリティを市場の中で顕在化させ、企業価値を高めていくか、という問題である。ただ、この問題は一つ矛盾があり、我々のエコロジー研究会で考えるとこういうものは長期的資産として考えていかないといけないわけだが、昨今の流れの中では、知的資産・財産をどう短期的に市場価値化していくか、顕在化させていくか、という中での企業価値の高め方が課題になっている。従って、これをどうとらえていくかが重要である。最近、私自身、必ずしも市場経済ではなく、社会経済の構想、宇沢弘文先生の所謂「社会的共通資本」という流れの中で、知的資本をどう位置づけていくかということを考えているが、それは次回のテーマにまわし、今日はそれから少し外れて話をさせていただきたい。

 昨今、企業のコンプライアンス、あるいはガバナビリティ、ガバナンスが非常に大きな問題となってきている。その中でCSRが大きな問題として捉えられている。これも企業の価値を高めていくためにどういうハンドリングをしていけばいいのか、どういうガバナンスをとればいいのかという問題であろう。基本的にCSRが興味を惹くようになった理由として、企業の不祥事が非常に多いということがある。不祥事が多いから、その対策を対処療法的に考えるという形でCSRが捉えられているが、欧米のCSRは必ずしもそうではない。むしろ一つの取組みのある程度の成熟度の次に出てくる質的な高まりとしてCSRの経営が議論されている。

 環境問題を考えていくと、1960〜70年代の環境問題は、基本的に環境と経済はトレードオフである。環境を守ろうとすると経済が失速してしまう。経済成長していくとその副次作用として公害問題など環境破壊が起こる。従って、環境と経済は両立しない、二律背反的な関係にあるということであった。しかし、環境と経済は本当にトレードオフ関係にあるのか?「環境と経済の両立は可能であると」いう考え方の中で、色々な先進国において取組みが進んできた。そのきっかけをつくったのは日本の環境政策である。環境と経済のトレードオフ関係をブレークスルーし、両立させたのは、環境問題・公害問題が深刻であった日本である。深刻であるがゆえにブレークスルーしなければならず、環境と経済を両立させるメカニズムが出てくる。1970年代における諸々の環境の深刻さに対して環境規制がなされ、その規制に企業が対応し、技術開発を進めた。エコ・イノベーションにより、アメリカのマイケル・ポーター、ドイツのマルティン・イェニケに評価されてくる。まさに、「環境と経済は適切な環境規制があれば企業の国際競争力を増す」という世界的なポーター仮説でまとめられ、その後アメリカの環境政策も、ドイツの環境政策も日本の環境政策を学び、超えて行くという流れを作った。今までのトレードオフという考え方や効率万能主義が大きな問題であったということが分かってきたのである。ところが、日本のイノベーションの流れを汲んだ形で出てきたドイツのヴッパータール研究所を中心とした「環境効率」という考え方は、「今までの効率は徹底していない。むしろ資源の無駄遣いが廃棄物や汚染物質を出しており、より効率性を高めることが重要である」ということである。効率万能主義ではなく効率の不徹底が問題であり、従ってどういう形で効率化していくかという中で次第に環境と経済の両立のフレークワークが出来上がってきた。ドイツにおいては「環境と経済のディカップリング」「環境と経済の脱相関化」と言われる。日本でも一部の産業界では環境と経済はトレードオフと言われるが、環境と経済は両立するはずだし、両立することが経済的にも環境的にも望ましいということで、経済効率的で環境有効的な方策が色々なところで提案されるようになった。

 日本のアドバンテージはそこまでで、それをさらに進めているのがヨーロッパである。次第に環境と経済の両立だけではなく、「環境と経済と社会の統合」という言い方をし始めている。これは、3つのE(Economy 経済、 Environment 環境、 Equity 社会)を高めて行くことが重要である。社会という言葉で表されるのはEquityである。Equityとは「社会的公正さをどう追求していくか」という問題で出てきている。環境問題のグリーンコンシューマー運動の流れの中で、アリス・テッパー・マリンたちは ”Shopping for a Better World”(よりよき世界のための買い物ガイド)を作ってきた。環境にやさしいものをつくっている企業を買うことで支持し、環境に悪いものをつくっている企業は支持しない、つまり買わないようにするということである。日常的な購入の態度を変えることでよりよき社会をつくることができる。ものをつくるときにも同様である。何のために作るのか?基本的に金儲けということになるのかもしれないが、世界的な賢人も、日本の賢人たちも金儲けとは「自分たちのつくったものが何らかの形で社会的に評価され、その結果として利益を得ること」と考えた。しかし、結果としての利益がいつのまにか目的化してきた。これを戒めるために、わが国でも近江商人たちが「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」を言っていた。これは、自分たちが追及する私的利益が社会的利益と一致しないと商売として認められない、ということである。企業の活動の私的利益と社会的利益とを如何に両立するかという当たり前の話だが、これが本来の経済活動である。私的利益は本当に社会的利益と一致しているのか?そういう面からは、ことさら「外国でCSRと言っているから日本もCSRだ」と考える必要はない。もともと日本の浪花の商人たちは「三方よし」の中でCSR運動を信用や信頼ということを含めて世界に先駆けてやっている。逆に言うと、それができなくなったというのは社会的利益を損ない、環境を破壊し、社会に迷惑をかけても私的利益を追求することを中心にした企業経営になっていることに他ならない。日本だけでなく『ビジョナリーカンパニー』の著書の中でも、Good to Greatといわれるように、いかにして社会的利益と私的利益を同一方向で評価するかが問題であり、基本的にCSRを評価するとは自分のところの利益は社会的利益と両立するということを確認するための作業である。よりよき社会をつくっていくために何が必要かというと、実は環境と経済を両立した後には、「社会的公正さ」という形に変わってくる。

 この社会的公正さとは、基本的にヨーロッパでは3つの形で考えられる。一つは国内的社会的公正である。今日的にヨーロッパでは公正さを「平等」という言葉で表現しなくなってきている。Social inclusion社会的包摂、social exclusion社会的排除 ということになる。社会的に排除された人に対して、いかに彼らを社会の仲間として受け入れるか、それが社会的公正さである。これに関してヨーロッパで一番問題になるのは(特にドイツが酷いが)、失業問題である。失業して雇用から排除されてしまうということである。雇用をどうやって進めていくかは企業の社会的利益にかなった形での追求になってくる。景気が悪くなったときに企業がリストラをして収益性をあげるという、生き残りのためのリストラは、明らかに社会的公正さからは離れた経済のあり方である。ヨーロッパ社会では失業者に対するセーフティーネットがあった。いわゆる福祉国家である。ケインズの経済学では、景気が悪くなるのは有効需要が損なわれているからであり、需要を高めるには、所得のない失業者に失業手当を与えることで消費を増やし、有効需要を増やして景気を回復するということになる。今日的な言い方では「消費的福祉国家」という言い方をする。しかしそうすると、高齢化も含めて社会福祉の関連費用が増大する。ヨーロッパは高福祉・高負担だが、消費者も次第に耐えられなくなり破綻してくる。日本でも同様である。それだけでなく、一つの問題点として、「働ける人から働く機会を失わせるということは、社会的公正さを保っているのか?」ということがある。そして、二つ目の問題は、福祉漬けされる人、福祉に悪乗りする人たちが出てくるということである。例えば半年働いて、意図的に失業し海外旅行に行き、帰ってきてまた半年働いて、失業するという悪乗りである。必要なところに必要な形で福祉をするという精神からいうと、こういう制度には欠陥があり、欠陥に悪乗りする人は必ず出てくる。法の盲点をつく、福祉国家に伴うモラルハザードの問題である。そうすると福祉国家が本当やらないといけないことは、働く機会の確保である。基本的に環境の問題でも汚染を出さないように未然の法則が出てくる。健康問題でも予防医学が出てくる。福祉でも失業者への手厚い保護よりも、彼らを失業させない方法が必要になってくる。ヨーロッパでは社会的公正の議論を通じて、「働く機会の確保こそ最大の福祉である」という形に変わってくる。本によっては「積極的福祉国家」、わかりやすく言うと「生産的福祉国家」と言われている。ヨーロッパでは次第に福祉国家の概念が、消費的福祉国家から生産的福祉国家へ少しずつ考え方が変わってくる。

 これがどこから起こったかというと、環境問題から起こった。日本が環境と経済を技術的ブレークスルーによりコストダウンしながら両立のメカニズムをつくったが、デンマークは環境税(CO2税)の形で、環境と経済の両立から、社会的統合へというメカニズムをつくっていったのである。環境税の話がでると、必ず経済にマイナスの影響を与えるという反対の議論が出てくる。環境税をかけるのは税収をはかるためではなく、環境を守ることが重要な問題であり、結果としてCO2が減ればいい。そこで、デンマークでは環境税の導入と同時に自主協定を政府と企業が結び、企業自ら省エネ的な技術を生産プロセスに入れ、第三者によりCO2が確実に減ることが証明されれば、税が還付されることにした。省エネによって電力コストが安くあがり、それにより国際的な競争力を悪化させることもない(国際的な競争力を悪化させないために、産業により税率は異なっているが)。この制度の一つの欠陥は、毎年税を還付するというわけにはいかないという点である。そこで、環境税は1995年に導入したが5年間に限った。環境を守りながらコストを下げることによって国際的競争力を持って企業が生き残っているということは、環境と経済と両立させているということ。両立させているということは失業者を出していないということ。失業者を出していないということになると、これまでのように失業者に対する福祉的手当が要らなくなる。そこで2000年以降は、社会的保険を減税することにした。企業は環境と経済を両立させるとともに、雇用を確保するという形で両立させていくということになった。環境税は社会的に意味がないわけではない。大体5年たつとドイツが導入した。ドイツはデンマークの環境政策を見ながらやっている。日本ではデンマークは小さい国で農業国だから参考にならない、ドイツは工業国だから参考になると言われるが、それだけ環境先進国から遅れてしまう。日本では未だにこういう議論をしていない。なぜかというと環境を議論する人たちは、背景を言わない。社会的公正さの議論の中で福祉国家間が変わってきたのだ。社会的に排除された人たち、失業者をいかに社会に入れていくかということ、雇用ということが重要な話になる。これは国内的な社会的公正さである。そして、国際的な現世代における社会的公正さ、今日的に言うと南北問題がある。南の発展途上国と北の先進国における環境問題をどうやって社会的公正の観点から考えるかということである。もうひとつの社会的公正として、将来世代との世代間社会的公正さがある。将来世代に借金を残す形で私たちの豊かさをつくってはならない。

 今、先進国では、経済と環境の両立はもはや当たり前のことであって、それに「社会との統合」ということが大きな問題になっている。だからこそ、経済と環境と社会の統合に向かって社会的利益、社会的価値を増進しながら自分の利益とどう折り合いをつけていくのかが、CSRの根本的考え方である。そうなると、企業は経営の事業性の内容よりも、経営の誠実さ、つまり、市場価値、従業員価値、環境・社会の価値をどう両立するかが問題になる。今日のアメリカ的な流れの中での議論とは異なり、ヨーロッパにおける流れは、企業は誰のものかというよりも、社会的な意味、すなわち大きな企業はそれだけ社会的に大きな影響を与えることから、全てのステークホルダー(利害関係者)へのアプローチをとっている。株主が第一のステークホルダーである。第二のステークホルダーは明らかに従業員、第三は消費者、第四は地域の住民、そして環境というように、様々なステークホルダーがいるということになる。

 例えば、企業は株主の顔を見て、利益を最大にしていく。法律もコンプライアンスもなければ、利益を上げるために、例えばできるだけ暗い労働作業ところで作業させてコストを削減する。そこで、従業員に対しては、労働基準法、労働法ができ、法律的にある一定のコンプライアンスがある。また、例えば、品質検査をしていないと欠陥商品がでて消費者に被害が及ぶ。そこでPL法といった法律ができてくる。しかし、法律によってすべての従業員や消費者に対する社会的費用がなくなったか?法律はパーフェクトではなく、不完全なものである。「ただ乗り」をする人もたくさんいる。

 そこで、Beyond Complianceの問題が出てくる。もともと自分の中で改善する仕組みを作っていかないと近代社会の問題は解決しないのである。すると自主的な取組みのフレームワークが出てくる。自主的取り組みとは、自ら計画をたて、行動し、自ら自己批判するということである。自ら自己批判するメカニズムをもつことであり、ハーバーマスの言う「再帰的」な形で自らが反省していくことである。個人主義をさらに徹底させるために、自己責任、自己批判の仕組みで、近代社会を進化させていく中での議論である。再帰資本主義という言い方をする人たちもある。いずれにせよ、法制度では企業は取り組めない。自主的な管理プログラムをつくるということ。品質についてはISO9000、環境については14000、その他もろもろのシステムができてくる。

 株主に対しては企業経営、企業会計の問題がある。外国では企業は不祥事を起こした場合、最初に捕まるのは会計士、監査人である。ちゃんと監査をしていないから見抜けなかった、ということである。日本ではそのようなことはほとんどなく、日本の環境・公認会計士は国際的水準と違う、ダブルスタンダードであると批判された。ISO化の議論もあったが、国際会計基準ができたのでそれに従うことになった。従業員については、労働と健康の問題からいうと、ISO16000かISO18000といわれているが、まだできていない。地域、社会的貢献は、SA8000ができているがまだISO化されていない。このように、まさに世界中が取り組もうとしている自主的マネジメントプログラムは、基本的に企業が存在していくには、社会的利益と私的利益をどう両立させるかというためのメカニズム構築にある。重要なのは「社会的に何が貢献できるかであり、その貢献した結果として自分たちは評価される」ということである。「社会的に安いのは従業員に対するコストが低いということであれば意味がない、両者のバランスをどうとるか」ということがCSRの考え方になる。商品の質を中心とした市場価値をどうやって企業が高めるか、従業員の価値、環境の価値、社会的価値をどう高めるかによって、総合的にバランスをとりながらCSRの展開をしていくことが非常に重要なことになる。CSRの理念には21世紀における企業のあり方が見えてくる。

 以上が本来のCSRの基本的な流れであるが、これをブレイクダウンしていくと、例えば、市場価値については、公正な取引をしているか、消費者の権利を守っているか、市場価値と株主利益を両立させるかどうか、という問題が出てくる。従業員との関係では、機会均等をはかっているか、セクシャルハラスメントをしていないか、生活と仕事を両立させるメカニズムをつくっているかや安全の問題が取り組みとして出てくる。環境については、諸々の環境負荷をどれだけ減らしているか、ということが重要な意味をもってくる。温暖化とかゴミ問題は取り組んでいるが、日本の取組みの中で抜けているのは、生物の多様性との関係である。企業が自然から何らかのものを取り出し、その上で経営をしているのなら、当然環境に対する保護をしなければならない。できるだけ掘り出す資源や排出されるCO2を減らすとともに、その地域での生物の多様性を壊していないかどうかが非常に重要な問題になる。ところが今のところ、生物の多様性をCSRの中に入れている企業はなかなかない。また、社会的価値の中では、地域との繋がりの中で以前はフィランスロピーとかメセナという形があったが、経済的活動の中ではうまくいかない。社会的貢献とはあくまで「社会的貢献によって社会的利益をはかるとともに、自分のところの利益とも両立させなければならないもの」である。ところが、お金をばらまけば社会的貢献をやっているのだ、という企業が多すぎる。

 自分のところの利益と地域的、社会的貢献を両立させながら企業価値を高めいくという一つのモデル事例がブリヂストンに見られる。ブリヂストンはタイヤ、ゴムの会社であるが、彼らは尾びれを失い泳げなくなったイルカのためにゴムで人口尾びれをつくったのだ。これ自身は社会的貢献であるが、ゴムを薄くすることで他の色々な動物にも適用できるようになり、最終的には人間の人口皮膚にまでつながる可能性が出てくるということである。また別の例として、積水化学工業は社会的貢献の中でファンド、財団をつくったが、そこで「自然に学ぶ」というプログラムをつくり、これからの積水のものづくりをバイオミミクリ、つまり自然に模倣した形で色々なものづくりをしていこうとしている。例えば、蚕がさなぎになるという生物の休眠メカニズムを調べていくと、癌を休眠させるようなメカニズムが考えられる。また、汚染物質に対する危険信号がわかるようなメダカをつくると、例えば目が光ることで有害物質が出ているということがわかる。これらは積水の本来の環境問題にも、ビジネスにも繋がるということになる。

 社会的貢献は何のためにするかというと、日本では「社会にイメージをつけるため」というのがあるがそうではない。根本の私的利益と社会的利益を両立させながら自らの将来的な持続性を高めるための経営が本来のCSR経営であり、それをきちっと捉えたCSR経営論はなかなか出てこない。何のためにCSRをやるのか?これはまさに企業の長期的な持続可能性を高めていくためである。社会の中にコミットしながら、社会的存在意義の中で如何に共生するかという形でそのメカニズムを作っていくことがCSRの本来の仕事である。よりよき世界を我々はどうやって市民として、企業として、公共としてやっていくのか?自らが自分と社会とのコミットメントをしながら、自分と社会との関係を見ながら、その中で日々再帰的に自己反省を繰り返しながら生きていくというのが、本来の近代社会が目指している社会である。そして、その社会に入れるのかどうかがまさに今問われている。


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