エコロジー研究会
第三者評価は時代のソリューション
同志社大学経済学部教授 郡嶌 孝 氏 
エコロジー研究会(H18.9.15)より

「ハチドリのひとしずく」から

 先ほど井上さんが壊れ窓理論の本を紹介してくれましたが、私も私なりの本を紹介させて戴きたいと思います。
 最近ちょっと話題になっている本ですが、皆さんはクリキンディというのを知っておられるでしょうか。知っておられる方は、手を挙げてください。話題になっているわりには、少ないですね。栗きんとんではないですよ、クリントンでもございません。クリキンディです。
 クリキンディというのは、「ハチドリのひとしずく」という本の主人公のハチドリです。この本は1200円で、光文社から出版されています。南アンデス地方の古くて新しいお話だ、と紹介されております。
 物語は単純です。しかしこの物語を哲学的に考えていくと、非常に深遠なものを含んでいるのではないかという気がします。ちょっと読んでみます。

 森が燃えていました。
 森の生き物たちは我先にと逃げていきました。
 でもクリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり
 くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。
 動物たちがそれを見て「そんなことをして一体何になるんだ」といって笑います。
 クリキンディはこう答えました。
 「私は、私にできることをしているだけ」

 それだけの話です。これをどう解釈するか。
 環境問題もそうですが、基本的に今日の社会というものは、自分と社会との関係の中で、私は社会に何ができるのか、その中で私はできることをしているだけ、ということになります。これは古い社会だけではなくて、近代社会におけるひとつの基本的な考え方として重要な意味をもちます。
 今日はその話をしながら、第三者認証ということに繋げていきたいと思います。


自主的な取組みと連携

 自らができることをやるということは、火事という社会的な問題が出てきた場合、その社会的な問題と個人がどう付き合っていくか、その課題や社会的な問題に対して自主的に、あるいは積極的にどうやって解決するのか、火事を消すかということを考え、自らができることとして内在化しながら行動し、取り組んでいくということになるかと思います。つまり私には私ができることしかできませんので、できることをやっていく。それが社会的な貢献であるということになります。これは、本業の中でのCSRとか社会的な貢献というふうにも読めます。

 物語はこれで終わっているのですが、この物語をどう読み解くかということで、いろんな人がそれぞれ、物語の続きや意味を解き明かしています。
 その中で非常に面白かったのは、ジャパン・フォー・サステナビリティの代表であり、環境ジャーナリストの枝廣淳子さんの考え方です。ジャパン・フォー・サステナビリティは日本の環境情報を世界に発信しようというNPOで、私も最初の呼びかけ人の一人に名を連ねていました。最近は時々挨拶をするだけで、彼らの仕事を見守っています。
 彼女は、ハチドリは仲間を増やしていくと考えました。1羽が2羽に呼びかけるとすると、2回呼びかければ4羽、3回呼びかければ8羽、10回呼びかければ1024羽、20回呼びかければ100万羽以上。そして40回呼びかけると、1兆羽以上のハチドリが出てきて火が消えました、という物語の続きを読み解いております。

 このクリキンディの物語は、役割分担の中でそれぞれ自らができることをやり、そしてそれぞれが孤立してやるのではなく、お互いに連携していきましょう、と読むことができます。つまり自主的な取組みをし、次第に回りの人たちに呼びかけをして、連携して社会的な課題に取り組んでいく。この自主的な取組と連携を新たなキーワードとしたのが、今回の改正容器包装リサイクル法でございます。
 今まではメーカーの責任だということで拡大生産者責任を言っていました。しかし今回の容器包装リサイクル法の取組みは、それぞれがそれぞれの役割の中でできることに、忠実に、一生懸命、自主的に取り組みながら、ただ取り組むだけではなく、次第に連携を広げていくという取組みです。同じ環境問題を解決するために、価値を共有し、お互いに信頼を深めながら社会的な問題を解決していこう、ということになります。

 以前、このエコロジー研究会の中でLOHASの話が出てきました。今までの地球環境問題は、自分よりはるかに遠いところの問題で、そこへどうやって自分がアプローチしていくかということでしたが、LOHASはそうではありません。
 自分に良いこと、例えば健康に良いことを求めていけば、そのためには地球が健康でなければなりません。自分の健康を気遣うだけではなくて、野菜やいろいろなものを育てている地球そのものの健康を気遣っていかなければならない。逆に言えば、地球が健康になれば我々も健康でいられるというサステナビリティの発想です。
 自分に良いことは、実は自分のところで完結するのではなくて、社会的に繋がっています。そして社会的な連携ができれば、それがまた自分のためになります。そのような形のソリューションとして、LOHASの問題がありますし、クリキンディ的な解決方法があるのではないかという気がします。

 もう少し考えますと、これは近代社会の中での基礎的な哲学にもなっております。
 例えばカントの哲学の中で純粋理性批判というものがございます。この中でカントは、人間らしさとは「真善美」であるとしています。真理を追究し、善きもの、つまりグッドソサエティーを創り、あるいは美しいものを愛で、追求するのが人間らしさだということです。
 この中で特に我々に関係するのは「善きもの」です。人間として、グッドソサエティーをどうやって創っていくか。
 カントは、まず自分が始めなさい、と言っています。まさにハチドリのクリキンディと同じです。他人が誉めようがけなそうが、笑おうが笑わまいが、それに関係なく自分でやって、いずれは周りの人に理解され、社会を動かしていきます。
 今まで我々は環境問題といったとき、企業がやらないといけないとか、政府を変えないと我々は変えられないとか、社会が変われば自分が変わるという考え方をしていたのですが、実はそうではありません。まず自分が変わり、周りの人がそのシグナルをきちんと理解すれば、お互いに連携して社会全体が変わってくる、そういう構造で取り組むべきだと思います。


情けと自己規制

 これは環境問題だけではありません。カントは「自らが善きものとしたら、自らそれを実践しなさい。それが社会的に意味のあることなら、実践することによって少しずつみんながその意味を理解し、社会は変わってくる」と述べております。
 日本でも、例えば「隗より始めよ」とか「情けは人のためならず」と言っています。「情けは人のためならず」というのは、人に情けをかけてやるとその人のためにならない、というのが今日的な解釈ですけれども、本来はそうではありません。人に情けをかけてやれば、結局は回りまわって自分のためになる、つまり情けは人のためではなく、いずれ自分が情けをかけてもらうため、ということです。
 最近では「小泉内閣の一連の政策には情けがなかった」「非情な」という言い方をしていますが、まさにそういう「情け」というもの、言い換えると「周りを考える」ということが非常に重要です。キリスト教社会では、己の欲するところをまず人に施しなさい、という行動倫理を説いております。

 周りを考えながら自分を大事にするためには、社会の中で、まさに社会的な動物として自分を見出し、自分で判断していかなくてはなりません。社会のために何ができるか、自分で良いことの計画を立て、それを黙々と実行し、今日は何ができて何ができなかったかをチェックして、できなかったところは反省と見直しをし、できたことはさらに目標を高めて継続的に改善していく。PDCAの中での自主的な取組みが求められる社会というのは、こういうことを意味しています。
 PDCAを最初に実践したのは、実は全共闘です。全共闘は1970年代からこれを一生懸命やっていました。今日のPDCAとは少し異なり、Cが「自己批判」、Aが「総括」で、この総括により命をなくした人もいましたが、基本的に彼らの運動の原理は「自らを高める」ということでした。しかしその自己批判は自ら批判するのではなく、他人が自己批判を迫るという形でしたので、曲がってしまったということです。
 いずれにしても、近代社会は自己規制というものが非常に重要な意味をもちます。


近代社会の成立

 近代社会は自由、あるいは個人というものを大切な価値として考えてきた社会であります。この「自由」も「自らに由る」と書きますように、自らを主体的に考えながらどうするか、ということです。
 そして最大の自由が「個人主義」ですが、それを追求するためにできるだけ政府の規制を減らし、小さな政府を創っていく。しかも小さな政府を創りながら、経済的には市場経済でやっていくということです。
 そのときの経済学の論理は、アダム・スミスが言うように、それぞれが自らの利益を最大にしていくということです。彼の「国富論」を分かりやすく言うと、例えば私たちがイズミヤでお肉を買うのは、「イズミヤは明日潰れるかもしれない、かわいそうだ」と思って買うのではなく、「イズミヤのお肉はおいしそうだ、食べたら満足するかな」と思って買います。そのようにみんなが自分の利益を最大にしていくと、社会的には混乱をもたらすのかというと、そうではなく、「神の見えざる手」によってうまく社会的な調和ができます。つまり私的な利益を追求しても、社会的利益が最大になるのが市場であり、政府が経済の問題に口を出すよりも、規制がない方がうまくいく、というのがアダム・スミスの考え方でした。
 ともかく、小さな政府で自由市場を中心としながら最大の自由を享受する、ということになります。従ってより自由を強調する人たちは、「市場」あるいは「市場経済」という言い方をしないで、「自由市場経済」「自由企業(フリーエンタープライズ)」のように「自由」をくっつけて言います。
 そのような形で近代社会は始まりました。規制なしの小さな政府の下における市場ですね。

 市場の中では競争の原理が働きますから、当然その中で優劣がつき、格差社会をもたらしてきます。
 格差社会ができると、本来普くみんなに及ぶべく自由が、勝ち組、強者だけが享受するということになります。あるいは個人を大事にしていたのが、その個人が超個人化してしまって、本来社会を成り立たせているような家族であるとかコミュニティーを崩壊させてしまいます。個人主義が行き過ぎてしまうと、最終的にはコミュニティーそのものが壊れて、割れガラスがたくさん出てきます。我々は最大の自由を享受しながら、核家族化やコミュニティーの崩壊に直面してしまい、そこから次第に政府の規制が始まります。
 いわゆる大きな政府を創って、規制がないところから公共的な規制がなされてきます。そのような規制の下に自由がある程度規制され、また格差社会の中では強者だけが享受する自由をあまねく公平にするということで、我々は大きな政府を創り、福祉国家的な社会を認めていったわけです。

 ところがそのような社会を創っていくと、かなり過剰な規制にまでなってしまい、規制によるがんじがらめになってしまいます。とりわけゴミの問題は、厚生省時代は「ああせい、こうせい」という形の規制ばっかりだったから「コウセイ省」だ、という冗談があるくらいです。環境省になって、少しはまともになり始めたかなという気がしないでもないですが、いずれにしても規制が中心でした。
 規制をするためのコストは非常に大きな意味をもちます。財政危機を引き起こし、次第に福祉国家、あるいは大きな政府が立ち行かなくなります。
 自由をめぐっても、最大の自由が強者だけのものになって、それをあまねく享受しようとすると規制をこうむらざるを得ませんので、規制の中における自由とは何なのかを考えなければなりません。

 そうこうするうちに、まさに終ろうとしていますけれども、小泉内閣が構造改革の下に規制緩和をしていくということになります。規制緩和をしていく中で重要なのは、規制が問題だったから規制をなくす、つまり近代社会の原則に戻っていけばいいのか、ということです。民間ができるものは民間で、ということで規制緩和の下に小さな政府を創っていく、市場万能主義を唱えていくというのが今の構造改革の姿であります。
 ところが規制を緩和するということは、必ずしも規制をなくすことではありません。社会の成り立ちを見ていった場合、規制そのものをなくすことが規制緩和ではなくて、規制のあり方を変えていかなくてはなりません。


回帰的社会と再帰的社会

 ヨーロッパでは、規制をなくし先祖がえりする社会を「回帰的社会」というのに対し、公的な規制ではなく、自主的な取組としてやっていいこと、やってはならないことを自ら判断し、やってはならないことを自ら規制していく社会を「再帰的社会」といいます。私は文学的に経済学を論じようと、回帰的と再帰的という音韻をふむために1年半くらいかかりました。
 ご承知のようにヨーロッパは大体、労働党のブレアなど社会民主党系の政権です。そこに大きな影響を与えたのが、この再帰的社会論です。再帰的社会論では、なぜそういう形で政策をやっていくのかというパラダイムシフトが起こってきます。
 一つは先程も言いましたように、国家が何でもかんでもやれる時代ではありません。
 今までのやり方は全て国家、あるいは行政が政策主体であったわけです。それに対して政策の影響を受ける政策客体は生産者や企業、消費者や住民でした。例えば公害なら生産者が加害者であり、それが消費者あるいは付近の住民に被害を与えるというふうに、因果関係がはっきりしていました。そのため誰に対して規制をし、誰を救うかがはっきりしていました。
 ところが環境問題ではよく言われますように、もはやその因果関係がはっきりしません。みんなが加害者であり、みんなが被害者です。政策をとる範囲が全ての人に及ぶということになると、必ずしもその政策の有効性はなくなるわけですね。

 今の社会では、政策主体がとることに対する客体の反応は、昔みたいに一義的ではありません。色んな取組みができます。
 例えばゴミの有料化にしても、ある人はできるだけゴミになるものを買わないようにし、ゴミを減らすという行動をとるかもしれません。ある人はできるだけリサイクルしようと分別を徹底するかもしれません。ある人は生ゴミをコンポストにしてゴミに出さないかもしれません。ある人はディスポーザーを買って生ゴミを出さないかもしれません。ある人は今まで2袋に入れていたものを、何とか詰め込んで1袋にして、節約しようとするかもしれません。しかしそれは2袋のものを1袋に入れただけで、ゴミが減ることにはなりません。またある人は不法投棄をするかもしれません。
 恐らく政府は、ゴミを買わないようにする、リサイクルを進めてくれる、あるいはコンポストでの自家処理を進めてくれる、ということを期待しながらやっているわけですけれども、その期待に反して、客体の環境意識の温度差によって、どうとるか分かりません。

 政府は良い政策を遂行しても、せいぜい60%の合格点が取れれば良い方で、昔みたいに高い点数は取れません。しかもそれにはコストがかかって、財政的な不安もあります。そうすると、もはや国家あるいは行政が全てやるという社会ではありません。
 そこで、自ら主体的にならなければならない、ということになります。政府がやることは、みんなに社会的問題を自らの問題として内在化させ、取り込ませること、つまり何人のクリキンディを創るか、ということになります。主体的に自らの問題として考え、自ら取り組む、あるいは勉強するというメカニズムが非常に重要だということになります。
 そのように、政策客体の主体化を通じて政府の規制という政策を脱することによって、つまり自己規制により法的な介入を減らすことによって、初めて我々は自由を享受できるということになります。


第三者評価の重要性

 さて、ここで最初に申し上げた第三者評価についてお話しする土壌は出来上がったと思います。丁度、土壌の第三者評価委員会について述べるので、掛け言葉になるかもしれませんね。
 この第三者評価委員会を創設した意味を述べますと、「個人の土地に対して政府の金を遣ってある種の保証をする」ということになると、公平性を欠くことになるということです。
 とはいっても取引者同士に任せておくと、売るほうは「安全だ」と主張しますし、一方買う方は「大丈夫か?」ということで、取引の遅延となったり、また調査を両方でやりますと二重のコストがかかります。
 そうかと言って行政に頼んでも、その専門家がいるわけでもないし、時間は大変かかりますし、その上その調査の正確性について評価をしてくれるわけではありません。単に報告書を受理しましたというもので、それで係争に耐え得るかという問題もあります。
 つまり資本主義社会における私人間の取引に政府が入るということは、公平性や人的リソースの問題、コストの問題から難しくなっています。

 そこで今、イー・ビーイングで土壌第三者評価委員会を創設し、私人間の取引の円滑化を図り、市民の安全・安心を築く一助として取り組みを始めました。
 再帰的社会を成り立たせる大きな柱は、自己規制・自己評価になります。しかし人は得てして、自分に甘く他人に厳しいというふうに、公平性を欠くことになります。
 私たちは土壌調査や浄化の報告書を、学識経験者、技術士、実務経験者など第三者の目を通して、時にはクロスチェックや実態調査を踏まえて、その正当性・客観性を評価するものになります。今後の再帰的社会における信頼の一つの柱として、この第三者評価委員会の役割は大きいかと思います。
 この評価をする場合でも、一番最初の調査から浄化までの一式の取組みの統合評価を依頼されますと、調査や浄化手法の適切性や的確性までも評価しますので、調査・浄化の無理・ムダ・ムラを省き、トータルコストを抑えることができるなどの副次効果も出ています。

 ここでは宣伝をするわけではありませんので、再帰的社会における第三者評価の意義をご理解戴ければ良いかと思います。

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